凍えるツバメの幸福9

9.ツバメ

「ねぇ、花森…」

花森はそよぐ髪を右手で押えながら僕を向く。

瞳は優しく僕をとらえる。

最初であった時に僕の額をなでてぬぐった指の面影はもうない。

「僕にあげるものがない今、慰問…どうして続けてるの…?」

花森は瞬間切なそうな頬笑みを浮かべる。

 

「ある人と私の約束…だからでしょうか…。」

花森ははちみつ色の町に視線を戻す。

「約束…?」

 

僕はフェンスに背を預け花森の顔を見つめた。

「もう、ぼっちゃんにはお話しすべきでしょう…。」

花森はそう言いながらも街から視線を動かそうとしなかった。

 

「私には年の離れた弟がいました。

弟が生まれてすぐ母が亡くなったので、すぐに離れてしまいましたが…。

譲…それが私の弟の名です・・・。

まぁ、元々私は弟の生まれる前から自活の道を歩いていたので弟と過ごした日々は本当に数日でしたが…。」

 

考えてみれば花森が自分のことを話すのはさとるの記憶データからも初めてのことだった。

 

「自活してはいましたが僕にはどうしても弟を育てられなくて、弟は施設に預けました。

その施設で弟はその行方を必死に探していた父親に出合い、その父親夫婦の養子になりました…。」

 

父親夫婦の養子…。

「じゃぁ…。」

僕は右手でフェンスの網を後ろ手につかんだ。

 

「僕ら兄弟は私生児でした…。

両親は同じ人で、弟とは間違いなく血はつながっています。

と、言っても状況は少し違っていますが…。

両親は若い頃につきあっていて、僕を身ごもると将来のある父を気遣って、父の前から姿を消したそうです。

将来のある男はやがて地位も名誉も手に入れ、そしてそんな男を世間はほっておかなかった。

男は有力企業のお嬢様と結婚しました。

でも、その男は母をずーっと好きでした。

妻がありながらも死に物狂いで母と僕を探し抜いて、探し抜いて、探し抜いて…

とうとう母を見つけました…

そして、弟を産ませたんです…。」

花森は見たこともないくらいに険しい目をしてフェンスを叩く。

その振動が僕の背を震わせた。

 

「僕は私生児の自分が嫌で早くから家を出ていました…。

もちろん父親であるその男も憎んでいました…。

母も…そして…弟も…。」

花森はきしむほどにフェンスを強く握る。

 

「男の執着は相当だったと思います。

僕は家を出ていて正解だった。

男は自分の会社の社名にギリシャ神話に出てくるのある男の名をつけていました、恋人を追う一途な男の名を…。

滑稽にも神話の男と同じように愛した女を死なせてしまいますが…。」

花森は鼻で笑う。

僕は花森の目に背に冷たい風のようなものを感じた。

 

 

「男の…会社名は…

…アイサコス…。」

花森が泣きそうな目を僕に向ける…。

 

…社名のアイサコスは「愛を咲かす」から…

 

そう『さとる』言っていた花森の笑顔の記憶はもう出てこない。

その時笑顔だったのかも思いだせない。

 

 

 

「さとる…君は僕の…たったひとりの弟だ…。」

僕は全身の力が抜けてその場にへたり込む。

 

 

花森が僕のそばに膝をつき、僕を抱きしめる。

 

 

「僕は心底憎んだ父から逃げるため名前を捨てて必死に生きた…。

でも、弟が…君があの男のゆがんだ愛情に母のように壊されないか…それだけが心配だった…。」

 

僕の頭に回された腕が痛い・・・。

 

 「あ…で、でも…名…前…僕の…名前…。」

花森は僕の髪をなでる。

 「あいつは…養子にした時まだ生まれて間もない子供の譲に新しい名をつけたんだ…。狂った理由で…。」

さわさわと花森の指が僕の髪を滑る…。

 

「僕の…僕の捨てた…本当の名は…

…小暮…悟…。」

僕は息をのんだ…。

…悟…。

パパによってつくられた3人のサトル…。

「あいつは逃げ出して手元に帰らない息子の名を…その実の弟につけたんだ…。『親子』をやり直すために…。」

 

 

 

「じゃ、どうして…ずーっと…ずーっと、僕のそばにいたじゃない!

逃げ出して、パパや…僕を…憎んだって言ったじゃない!

僕を憎んでるの!?」

僕は花森の襟をつかむ。

花森はうつむき頭をふった。

 

「少なくとも譲があいつにもらわれたって知った時、譲への憎しみなんて消えていた。

甘いミルクのにおいをした温かな存在に愛おしさが込みあげるくらい…。

僕にとってたったひとりの家族と思えるくらいに…。

だから、心配で心配で…、いてもたっても入れなくなって…。

あいつが僕の顔を知らないのをいいことに他人のふりして会社にもぐりこんだんだ…。

幸いというか…僕にもあいつの血が流れていてこの会社であいつのそばに近づける位置になるまで時間はかからなかった…。

近づけばお前のそばに入れる…。

それに、あいつのそばにいればいつか復讐してやれる…って思ってたし…。」

僕は花森の腕を払って後ろに飛び退く。

 

「じゃ、あの事故は!」

花森は驚いたように目を丸くし、頭をふった。

「まさか…。さとるの乗ってる車を狙うわけないよ。」

そう言って花森は頬をかく。

 

「あれは本当に不運な事故だったんだ。」