8.サファイアと金とルビーと…
僕は数日もベットから起き上がれなかった。
耳元では夢で見たトロイメライがかかっている。
ひどく懐かしく、心地よいそのメロディーが僕の心にできた大きな傷を優しくなでていく。
夢の話を花森にしたら自分の持ち物だという古いオルゴールを持ってきてかけてくれたのだ。
花森の持ち物だったら『さとる』が聞いていてもおかしくない。
そのせいか僕の中の『さとる』はひどく落ち着いていて、いつもと変わらず一定音の波長を刻んでいる。
でも、その変わらなさがたまらなく僕に「オリジナル」を突き付ける。
花森は僕が布団から出ようとしない間にゆきなのドナーの至急の手配と移植費用の寄付をしてくれた。
心臓移植の優先順位が上がったし、雪名の現状の体力だと半年以内には移植手術ができるだろうとのことだった。
花森はその間にゆきなに会いに行くよう勧めてくれたが僕は何だかショックと空回りした気恥かしさとでゆきなの顔を見れそうになかった。
おタカさんは事故の後遺症かと右往左往に心配し、僕のお気に入りのスープを毎日のように作ってくれる。
それを口にし、トロイメライを聞きながら僕は窓の外を眺める。
窓から見える景色は残酷に日常的で、鮮明で、
青い空も、白い雲も、そよぐ風も、揺れる木も、終わりを迎えて散る薔薇の花弁も僕のことを見向きもしないで通り過ぎていく。
でも、僕にはそれが心地よかった。
僕をお構いなしに過ぎていく時間こそがベットから僕の手を引いてくれるんだ。
僕は「よし」と掛け声をかけておタカさんが用意していておいてくれたいつもの普段着にそでを通した。
僕に時間は関係ないけど、『さとる』にはリミットがあるんだ。
きっとまだ何十年先かもわからないけど悟の心臓は間違いなく朽ちる。
その前に『さとる』の引越し先を見つけてあげなくちゃ。
僕にはこのチタンでできた骨があるけど、『さとる』の皮膚じゃどう考えても探しにいけない。
なぁ、そうだろ?
僕は大人しくなった『さとる』に問いかける。
「花森ー!いるー?次の慰問っていつ―?」
僕が声を張り上げてドアを勢い良く開くと向かいの花森の居室と下の台所で勢いよく物が落ちる音が響いてそれぞれふたりが飛び出してくる。
んふふふ。
僕は笑いをこらえられず声を漏らした。
花森はうごきだした僕を喜び、詰め込み過ぎってくらいに慰問の日程を入れてくれた。
花森は僕に残された臓器を知っているのでそれに当てはまるような子のいるところを優先して入れてくれているらしい。
残されているのは目、皮膚、肝臓…。
時にはさとるのお眼鏡にかなう子がいなくて、棒に振る時もあるけど順調にさとるはあたりをつけていく。
目は生後すぐに事故で角膜を傷つけてしまったピアニストを夢見る11歳の少女…。
手探りでゆっくりと弾いてくれたロンドン橋がさとるのハートを(・・・っていうのも変かな?)撃ちとめたみたい。
皮膚は3人。
一人は背中に大きな傷が残った8歳の男の子。
火傷で指のくっついてしまった4歳の女の子。
顔にやけどを負った10歳の少年。
肝臓はウィルス性の肝炎を起こした17歳の少年だった。
マスターは嫌な顔ひとつ見せず、花森と連絡を密に移植の準備をこなしてくれる。
まぁ、相変わらず廉は会うたびに「せっかく入れたやつを出すバカがいるか!」と憎まれ口をたたく。
でも、何だかんだと精力的に手を貸してくれているらしいから僕は大人しくそれを甘んじて受けるんだ。
あわただしく過ぎていく時間の中で僕の身体には残骸のように残った皮膚と心臓のさとるだけが残されている。
でも、花森は慰問の日程をやめようとはしなかった。
僕はそれが何だか不思議でしょうがなかった。
たしかに客寄せパンダとしての会社の目的は知っているけど…
花森は臓器移植のための慰問だったことを知っていたはずで、僕の目的はもう達成されていることを知っているはずなのに…。
花森は会社よりも僕を優先してくれる…何だかそんな根拠のない地震が僕の中には芽生えていた。
僕はどうしても知りたくなって慰問の日の夕方、ゆきなと出合ったあの屋上へ花森を誘った。
ゆきなは移植のために海外へ行ったと聞かされていたから僕はためらいもなくそこを選べることができた。
あの日のように夕日ははちみつ色の世界を作っている。
花森の柔らかい猫っ毛が風に揺れている。
なぜか最近大人しかったさとるがざわめくように跳ねていた。
僕とさとると花森…考えてみたらこんなに静かに3人きりになるのって初めてかもしれないな…。
僕は大きく息をすった。