7.鉛
「どうしてできないんですか!」
僕は茫然として声を上げられない。
叫んだのは花森だった。
…心臓は移植できないって…どうして…
僕の喉はカラカラに悲鳴をあげてる。
「さとるの心臓は特殊な役割を持っているんです。」
マスターは静かに僕の方を見つめている。
「…特殊…」
渇いた喉に言葉が閊える。
花森が優しく僕の背をなでてくれる。
「心臓に記憶細胞があるのは知ってるかい?」
マスターは自分の心臓を指さす。
僕は頭を振った。
「記憶細胞というと・・・脳と同じように心臓も記憶をしているということでしょうか…」
かわりに花森がマスターへ問いかけてくれた。
マスターはうなずく。
「花森さんは記憶転移をご存知でしょうか?」
花森はしばし考えた後思い出したようにうなづいた。
「たしか記憶転移は臓器移植の際に提供者の記憶の一部が受給者にうつる現象でしたでしょうか?」
マスターはほほ笑んでうなづく。
「まだ研究段階ですが臓器内の神経組織に記憶が蓄えられているという説があります。
特に古来から『心』と同一視されているように心臓は他の臓器以上に多くの記憶細胞があるのではないかといわれています。
例えば心臓の中には神経線維の密集した部分があって脳から独立して心臓の運動を制御していますよね。
この部分が大脳と比べればごく少量でも記憶を蓄えておくことができるのではないかと考えられています。
僕はこれを参考にさとるのコントロールICと心臓を連携させ、周囲の人の記憶だけでは補いきれない『さとる君の記憶・感情』というものを掘り起こそうとした…。
現実のさとる君に近づけるために…。」
僕は驚きに立ちあがった。
椅子は大きな音を立てて転がった。
「じゃ…あの声は…本当に…さとるの…」
僕の身体はブルブルと震えだす。
心臓もまるで僕をあざ笑うかのように激しく踊っている。
「…思い当たる節があるんだね…」
マスターが目を伏せる。
「じゃ、あの『さとる様の意思だ』というのは本当に…」
花森はマスターと僕を交互に見る。
「…声が…聞こえるんだ…臓器移植ができそうな子を見ると『あの子のとこへ行きたい…』って…」
僕はへなへなと座り込み、花森は心配そうに椅子を折り、僕の横へ膝をつく…。
違和感などではなかった…。
たしかに僕の中に『さとる』は存在していた…。
存在して『お前は偽物だ』と僕にメッセージを送り続けていたのか…。
僕は激しく笑い立てるさとるの心臓に手を添えた…。
ゆきなを見て跳びはねた鼓動は『さとる』のではなく『僕』だったのか…。
滑稽だ…。
一瞬で落ちた恋に僕は浮かれて、舞い上がってさとると僕の区別もつかなくなっていたのか…。
マスターは僕のところまで来てくれて僕の頭を優しくなでた。
「だから、心臓は…心臓だけは君から外してあげるわけにはいかないんだ…。
ごめんね、さとる…。
さとる君の臓器をできるだけ使うようにという条件を聞いて、心臓という脳をさとるの存在価値にしなければならないと思った…。
それは今でも変わらない。
君の中にさとる君は残らなければならない。
それには『心』であり『脳』である心臓でなければならいんだ…。」
僕は僕の胸をかき抱いて嗚咽をあげた。
花森は優しく背中をなでた。
「もし、さとると『さとる君』が他の臓器のドナーを見つけたら今度はきっと役に立つ…。約束するからね…。」
マスターの手のぬくもりが僕の頬の涙をぬぐう。
「でも…」
僕はマスターを見上げた。
「ん?」
マスターが子供をあやす母親のように柔らかいまなざしを僕に向ける。
「…それじゃ…ゆきなは…たすけられない…」
花森はその言葉に背中を強くさすってくれて、僕の涙は一層激しさを増した。
マスターは花森に視線をむけた。
「さとる様のひとめぼれ…いえ…初恋の女性です。いま、心臓の移植を待っておられます…。その方に移植をしたいと…。」
マスターは目を細めた。
「そう…さとるの…。」
僕が泣き疲れて花森の膝に身を沈めるまで花森とマスターはただ静かに側に寄り添っていてくれた。
花森の膝に頭を載せている間、僕は夢を見た。
トロイメライのオルゴールが響く、はちみつ色の温かい夢だった。
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参考:トロイメライ YOUTUBE