のばした手
藤爾の足元を冷たい空気がさらっていく。
通気口からこぼれる微かな雨音はどこか現実離れをした遠い世界の出来事のように藤爾の耳に届いてくる。
しかし、藤爾は手元の本に集中しすぎて足元の冷えも雨音も
優奈からもらった本に目を通すのはもう何度目だろうか…。
正直、藤爾の好みのど真ん中の本だった。
いつも読む聖爾が読む本は政治や経済や哲学の本がほとんどだった。どんな本も好き嫌いせずに目を通したが自分には意味のない政治や経済などの分野の本でも正直楽しくはなかった。永遠にも思える暇な時間を埋めるのにえり好みをしている場合ではなかった。経験の分聖爾には劣るだがきっと同年代の人よりは博識な部類に入るだろう。
むしろときどき聖爾が気まぐれに読む歴史や小説が藤爾は好きだった。現実を離れた空想にも似た世界に頭をゆだねるのはひどく心地が良かった。聖爾にしてみれば『常識の範疇で』読む本なのだろうが…。
本を読んでいる時藤爾はしおりがわりに本の角を折った。
しかし、それは聖爾の癖でもあった。
ふとつけた印が重なることも多く、読むペースや呼吸が一緒であることを暗示していた。
意識したわけでも、まねしたわけでも、誰に教えられたわけでもないその癖は不思議と血のつながりを、双子であることを証明しているような気になってくる。そんなことが証明になるものかと思うだろうが会うこともままならない弟と重なる癖はひどく不思議な感じがした。
そんな時藤爾はうれしいような不快なような何とも言えない気持ちに支配される。
「ねぇ、それおもしろい?」
ふと聞こえた声にハッとして視線をあげると結奈がしゃがみ込んで藤爾を見つめていた。
「来てたの?」
気付かなかった。少し苦笑いをうかべると本の角を折って、ベットの上に本を置いた。
「もう。結構待ってたのよ」
そういうと優奈は片隅にある椅子を引きずってきて檻の前において腰をかけた。
「声掛けてくれればいいのに。」
藤爾も優奈と向き合う形に椅子をずらす。
「かけたんですけど。全然気づきもしなくて、ホント本が好きなのね。」
「ごめん。ココいると本ぐらいしか楽しみがなくてね。それにいつも一人だから誰かの気配なんて気にせず読むもんだから…。」
「いいわよ。その・・・。」
優奈はちらっと視線を外す。
「ん?」
「気に入ってくれたんでしょ、そのこの前の本・・・。」
優奈はベットにおかれた本を指さす。
「ん。すごく僕好みの本だった。ありがとう。」
優奈はふわりと花のように微笑み、藤爾もつられて笑んだ。
ふいに藤爾は顔を引き締め優奈を見つめた。
「でも、こんなに足しげく通って大丈夫?」
優奈はからからと笑う。
「大丈夫!毎回これているわけじゃないし…。聖爾とかがいない時見計らって来てるから、その辺はぬかりなくね。」
藤爾はふうとため息をつく。
「あんまり聖爾を見くびらない方がいいと思うけど…。」
「そう?気をつけてきてるから大丈夫だとおもうけど。」
藤爾は再びため息をついて背もたれに体を預けた。
「ホント君って好奇心の旺盛なお嬢様なんだね。」
優奈も藤爾をマネして体を少し後ろに倒す。
「お嬢様って言ったって付け焼刃の成金娘ですから。」
「君の後先考えない行動力には頭が下がるよ」
優奈は身を乗り出して柵に額を付けた。
「だからその本手に入れられたんでしょうが。」
藤爾は隙間から手を伸ばし優奈の頭をなでる。
「わかってるよ。それに褒めてるんです。僕なりにね。」
優奈はそっと頬を染め、少し乱れた髪を撫でた。
「最近ちょっとわかってきた。藤爾のちょっとひねくれた素直さ・・・」
「なにそれ?ひねくれてるのに素直って日本語おかしいよ?」
「もう!人が真剣にいってるのに!」
優奈はぷっと頬を膨らませ視線を はずした。
「ごめん。・・・そう言ってくれるならわかってるんだろ?」
藤爾は手の甲で優奈の膝を撫でた。
「今のはテレ隠しの…ありがとう…?」
優奈はそっと視線で藤爾の顔をうかがう。
藤爾はそっと頬笑みで返した。
「君は母にちょっと似てるよ。」
「お母様に?」
「顔とかじゃなくて雰囲気?なんとなくね。だからちょっと甘えてるのかもしれない。」
藤爾は優奈の眼を見て楽しそうにほほ笑む。
「そういう素直さ弟は持って生まれてこなかったのかしら…。」
「聖爾?どうだろう・・・僕らは一緒にいない時間の方が長いくらいだから…。」
「少しくらい愛敬の一つを見せてもいいと思うんですけど・・・。」
「ひどい言いようだね…」
藤爾の声が入口の方から聞こえた。
いや、藤爾ではなくその声は聖爾のものだった。
聖爾は入口に背を持たれさせこちらを見ていた。その少し後ろにはやはり千珠が控えていた。
「全く・・・あなたという人は・・・興味本位でうろうろしてるだけかとほっておいたら入り浸ってしまって・・・。こんなに私はあなたを大切にしているというのにこまった婚約者様だ…。」
「大切な金づる…だものね…」
藤爾は芝居臭い聖爾の動きに冷やかに言い放つ。
優奈は挙動不審に二人を見比べている。
「・・・ふふふっ・・・・はははは・・・・」
聖爾は穏やかな笑みを顔から消す。
「双子ってそんなことまで通じちゃうんですか…兄さん?」
「別に通じてなんていない。お前にはそうしか思えないんだろうと思っただけだ…。」
「全く嫌な性格に育ったものだな、お前も。」
「お前ほどじゃないよ。」
二人は檻の柵を挟んで対峙する。
聖爾はふと向きを変え優奈へと近づくと髪を握り、檻の入口へと近づく。
千珠が素早く入り口のかぎを開けると聖爾は優奈を荒く突き入れた。
キャッという悲鳴とともに優奈は石畳に倒れる。
藤爾は優奈に近づき抱き起こす。
「優奈、大丈夫か?」
「えぇ、ちょっと膝をすっただけ…。こんなの大したことないわ」
入口は再び千寿によって閉じられていた。
聖爾は二人を見下ろし愉快そうに笑う。
「私はお二人のお姿を見て一緒にいて差し上げたくなったんです…。」
「猿芝居はやめろ」
藤爾は聖爾をにらむ。
「おまえは彼女に母さんを重ねてるんだろ?自分を忘れて、僕だけを見た母さんを…」
「うるさい!」
聖爾は檻を拳で力いっぱい叩く。
「彼女は母さんじゃない…今すぐ出してやれ…」
「うるさい!私に命令するな!」
聖爾の手は何度も柵を叩く。
叩く手を止めた聖爾は機微を返すと入口へと歩く。
「そいつが好きならそこにっずっといればいい。ずーっとな。」
聖爾は一度も振り返らず地上へと帰って行った。
藤爾は深くため息をついた。
すれた膝をなでる優奈に藤爾は頭を下げた。
「ごめん・・・。逆なでしちゃったみたいだ・・・。」
優奈はふふふっと笑う。
「・・・どう・・・したの?」
「びっくりした!」
「え?」
「殺されるかと思っちゃった。」
「まさか・・・」
優奈は乱れた服を整えると体育座りで膝を抱えた。
「でも、そう思っちゃったんだもん!これぐらいで済んでほっとしちゃった。」
聖爾は破顔すると優奈の頭をそっとなでる。
「君って人は…」
「それに・・・」
そういうと優奈はそっと聖爾の胸に顔をうずめた。
「はじめてあなたに抱きつけたわ…」
藤爾は面喰ったように固まるが、やがて優奈の背にそっと腕を伸ばした。
藤爾の腕に温かなぬくもりが伝わる。
もう忘れかけた温かさに藤爾は壊れぬようにこぼれぬように強く力を込めた。