赤い雪~ぬくもり~

 今年もこりもせず、雪はうずたかく積もっていく。

と、いっても、私はその雪を透明なガラスを隔ててしか見ることはない。記憶を頼りに『触ったらきっと冷たい』とか『外は寒いのだろう』とか思っているだけ…。その記憶でさえもわずかなものである。普通の人に比べればそれは『皆無』に近い。
私は幼いころから体が弱かったため、外に出ることはほとんどなかった。雪の日はもとより冬の日の外出など自殺行為のように思われていた。
 
たった1度の雪の記憶。
 
私がまだ9つの時、部屋を抜け出して最初で最後の『別世界』に触れた。それは「白銀の世界」と「突き刺すような寒さ」。そして「右手に感じる手の暖かさ」の記憶。
あれから6年…。私は15になった。母やばぁやの志乃は口ぐせのように『もうお嫁に行ってもいい年なのに』と私に語る。部屋から出ることもなく、会う人間も少ない私にはまるで他人事のように聞こえる。一瞬先にも命のあるかわからない私にとっては全てがどうでもいい話でしかなかった。それは自分の命でさえも…。
 
毎日息をしてるだけ…。
 
朝、目を覚ましても「あぁまた今日も生きていた」と、安心するわけでも、喜ぶわけでもなく、かといって落胆するわけでも絶望するわけでもなくただ事実を確認するだけだった。
何の意味もない。この雪のように、ただただ降り積もり、意味も泣く毎日『ある』だけだった。
 
『沙奈さん?起きておいでですか?』
 
ふすまの外から男の人特有の声がする。低く、それでいて落ち着いている。和樹の声だ・・・。その声は聞きなれたというだけでは言い訳が付かないほど聞き分けられてしまう。彼は雪の記憶に残る『暖かな手』の持ち主だった。
 
彼は父の友人でもある貿易商・田鎖氏の三男だった。病弱で友達のいない私を気遣って東京で師範学校に通っていた彼を父が説得したのだ。私より10上の彼は今は何人かの裕福な家庭の子女の家庭教師をして生計を立てていた。他の同世代よりは遥かにいい暮らしをしているという。事実、彼はいつも身なりがよかった。
 
 
彼にとって私は『最初の生徒』であり、未だに拭いきれない罪悪感の源だった。
 
教え初めの私に『雪が見たい』と駄々をこねられ深く考えず外に出した結果、私は高熱を出し、体はさらに弱くなってしまったのだ。
 
彼は一種の『責任』であるかのように私のもとに通ってくる。しかし、私にとってはそれでも『彼が来る』という事実には変わりなく、彼の罪悪感にすがって『絆』を絶やしたくなかった。
私がたった一つこの世への未練があるとするなら、きっと『彼』のことだろう。
 
たぶん・・・
 
 
 
自分のことなのに『たぶん』というのもおかしな話だが・・・。
たぶん・・・私は彼を愛しているのだろう。
 
『どうぞ。』
そういうと襖がスッと音を立てて開く。茶掛かった髪と白い肌がのぞく。なんでも外国の血の混じる母譲りらしく彼の髪は私の黒い髪とは違う。少し縮れて茶色い。母たちはそんな彼の髪を「おかしい」と笑っていたが私は大好きだった。特に窓枠に背を持たせて節目がちに本を読んでいるとき、髪を光がすり抜け美しかった。男の人に美しいと言うのは変なことかもしれないがたった10畳ほどの小さな部屋しかない私の世界では最も美しいものだった。
 
部屋に入ってきた彼の髪は雪をかぶり、少し濡れていた。私は後ろにある小さなタンスから手拭いを取り出す。
 
『髪が濡れているわ。お使いになって。』
 
彼は寒い中を来たのだろう。頬が赤かった。差し出された手拭いを受け取る時さらに頬は赤かった。
 
『いや、お恥ずかしい…。約束の時間に遅れそうで走ってきました。電車がこの雪で遅れまして…。』
 
『田鎖の方ですもの馬車の1つもお呼びになったらいかがでしたの?』
 
『お金があるのは父と兄の話です。私はもう家を出て独立しています。そんな余裕は僕にはありません。』
 
そう言って彼は濡れた髪の水分をふき取っていく。
 
『今日は雪が降っているのですね。』
 
そういうと彼の動きがわずかに止まる。そして彼は少し困ったような笑顔を向け『そうですね』とつぶやいた。
私はなんて嫌な女なのだろう。彼の優しさに付け込んでは罪悪感を逆撫でして私のもとに縛りつけようとしている。本当は『もう気にしないで』といってあげたいのに、言ってしまえばもう、2度と彼がここには来ないのではないかと不安で言い出せない。
 
 
布団から這い出し彼に近づくと寒さに赤らんだその白い頬にそっと触れる。
 
『冷たい・・・』
『沙奈さん、いけませんよ。僕はさっきまで外にいたんですから。』
そう言って頬に触れた手をそっと引き剥がす。
『外に積もる雪はもっと冷たいのでしょうね・・・。』
『・・・。』
一瞬の沈黙はひどく長いように感じた。
 
 
『沙奈さん、吉岡さんとの縁談が決まったそうですね。おめでとうございます。』
耐え切れなかったように、彼は堰を切ったように話しはじめた。
 
『・・・そう。決まったの。早かったのね。』
『・・・ご存知じゃなかったんですか・・・。』
私は静かに布団へと戻る。
『私には関係のない話ですから。』
『関係ないって・・・あなたの縁談じゃないですか。』
 
和樹が声を荒らげるのを聞いたのは何年ぶりだろう。
 
『父にとっては私は道具なんです。しかも欠陥品の・・・。それをさばくのに道具にいちいち確認を取る必要はないんです。欠陥品がうまく人手に渡ることがすべてですから。』
『そんな言い方・・・。あなた自身のことなにどうしてそんな他人事のようにいられるんですか?』
『じゃあ、どうしろと?泣いて叫べと?嫁になど行きたくない。ここに居たい。親の負担になると知っていて、私にそう叫べと?幼いころから自分が重荷であることを自覚させられながら生きてきた・・・。一人では外にも行けない。逃げることさえできない私がなぜ「否」と言えるんです?』
『沙奈さん・・・。』
『小さい頃からこの家から出たくてしょうがなかった。初めてあなたと会った時、この人なら連れ出してくれるんじゃないかと思ってわがままを言って連れ出してもらった・・・。でも、そのまま連れ戻されて・・・。外に出るにはお嫁に行くか、死ぬかです・・・。それとも、またあの日のようにあなたが外へと連れ出してくれるんですか?あの日の罪におびえるあなたにそんなことはできやしないでしょう?』
 
私はふてくされたように布団の中へともぐりこむ。悲しいからか、悔しいからかわからないけど涙があふれてくる。声を殺して、唇をかんで涙が止まるのを待った。
 
 
ふと布団の上に重力が加わる。そっと顔を出してみると和樹が布団の上から私を抱きしめていた。
 
『先生?』
『逃げましょう。』
和樹の腕に力が入る。
『私でいいなら、どこまでもあなたを逃がしましょう。あの日の罪に甘えて私はずっとあなたのもとに通い続けた。病弱なあなたをまるで籠の鳥のように思って、逃げることがないと信じて足を運び続けた。でも、鳥が何処かに行ってしまうというならこの手で何処かに隠さなければならない・・・。子供の発想でしょうか・・・。』
 
そういうと和樹は微笑んだ。
 
 
『先生、いいの?』
 
和樹は答える代わりに私にそっと口付けをした。
 
 
『行こう。』
 
 
そう言って私に自分の着てきたコートをかけ、タンスの中の着物で即席のブーツを作った。
 
窓を開けると冷たい空気が流れ込む。
 
 
和樹は私を抱えて飛び降りるとそのまま二人で手をとって駆け出した。
 
窓の下から一筋の線が伸びていく。
 
久しぶりの雪に触れている、久しぶりに外の世界に出ているというのに私には何の感動もなかった。私はただ左手から繋がる彼の存在だけがひどくうれしくて夢中で走っていた。
 
 
 
走って
 
走って
 
 
走って・・・
 
 
 
どれぐらい走ったのだろう。もしかしたらそんなには走っていないのかもしれない。
日ごろ運動などしない私の息は切れ、足がもつれ、とうとう転んでしまった。
 
和樹はそんな私を背負うと再び走り出す。
 
あの日と何も変わらない。
冷たい雪と彼の暖かな手・・・。
ただひとつ違うのは彼の温かな背中と
 
 
 
 
二人がもう、子供ではないこと・・・。



 

しかし、耳を澄ますと背後から馬のひづめの音と人の声が近づいてきた。
『気付かれたか・・・。早すぎる・・・。』
和樹はそうつぶやくと右手にあった森へ向かって走り始めた。
 
しかし、馬の足と人の足。追いつかれるのに時間はかからないだろう。
冷たい空気と激しい運動で私の胸にはひどい痛みが走っていた。
でも、それを和樹に言えばきっと彼はここであきらめてしまうような気がして言い出せなかった・・・いや、言い出したくなかった。
 
森に入り込むと和樹は雪の吹き溜まりになっている窪地を見つけ、そこに滑り込んだ。そして私を胸に抱きしめじっと息を潜めていた。
痛みに耐え切れず咳き込むと雪に赤いしみができた。
『沙奈・・・。』
 
 

 和樹の呼ぶ声で初めてそれが自分の血だと気付いた。
 
『また俺は沙奈を危険にさらすのか・・・!』
 
私は一生懸命首を振る。
今なら言える気がした。
「あなたのせいじゃない。気にしないで」と・・・。
 
 
 
でも、声にならなかった。
息をするので精一杯だった。
 
森の中に銃声が響く。
再び和樹は私を包むように抱きしめる。
『何で銃なんて・・・。沙奈に当たったらどうする気なんだ・・・。』
胸の痛みをこらえてぐっと息を呑む。
 
少し、胸が楽になった気がする。
『・・・当てる気なんだわ・・・。自分の思い通りにならない欠陥品を壊す気なのよ・・・。
地主の娘が男と駆け落ちなんて、お父様はいい笑い者でしょうから・・・。
お父様には耐えがたい屈辱ね・・・。』
『まさか・・・。』
『和樹だけでも逃げて。私はきっと足手まといになる。外に出れた。あなたといっしょに外に出れた・・・。それだけでも十分なの。一人でならきっと逃げ切れる!』
『それじゃ意味がない!二人だから意味があるんだ!一人でなんて行けない・・・行けないんだ・・・。』
そう言って和樹は腕に力をこめた。
 
どんどん銃声は近づいてくるような気がした。
 
 
ふいにドンという衝撃が走り、和樹の身体が私にしなだれかかってきた。
『和樹?』
声に反応がない。
 
起こそうと背中に回した手にヌルッとした感触が走り、見ると手は真っ赤に染まっている。
 
『和樹・・・和樹!』
『・・・大丈夫。かすっただけだよ。でも、ここも安全じゃない。いちかばちか逃げよう。』
そう言って私を抱きかかえようとする和樹を私は制止した。
『私も走る。もう大丈夫。和樹だって怪我してるもの。走る。』
そういうと和樹は静かにうなずいて、私の手をとった。
 
 
吹き溜まりからかけ出すと「いたぞ!!」と声があがる。
 
 
和樹の手に引っ張られながら私は一生懸命走った。
何度も銃声が鳴る。
いつしか和樹の走る速さは落ちていた。
私が先を走り手を引く形になっている。
逃げたい。この人と何処か遠い地に行きたい・・・。
 
 
それだけが頭の中を支配する。
 


 
 
ガンッという銃声とともに前に倒れこむ。


 自分に痛みがないことが私を驚愕させた。
 
自分の手に和樹のぬくもりがあるのを感じ、ほっとして振り返る。


 しかし、和樹は私の少し後ろに両腕を抱えてうずくまっている。


 じゃ、この手に残るものは・・・?
手の先にあるか和樹の手は手首の少し先でちぎれていた。


 『あ゛ぁ-!!』
私の声は悲鳴と言うより獣の咆哮に近かったかもしれない。

 私は和樹の手を抱えて和樹の元にかけよる。私の服は和樹の血で赤く染まっている。


 『和樹、和樹-!』


 和樹の腕からわき腹にかけて銃痕が残っている。


 『和樹・・・』


 必死に口を動かすが声は聞こえない。
 
息が荒い・・・呼吸をするのがやっとのようだった。
和樹は必死に私の腕を押し返す。
 
声にならない声が必死に訴えかける。

 「に・・・げ・・・ろ・・・」


 『だめ!さっき和樹言ったでしょ?二人じゃなきゃ意味がない!一人じゃいや!』


 私は和樹を背負って歩き出した。
私より20cmも大きい和樹を背負うのは限界があったつま先を引きずり、膝を引きずり・・・。
5mも歩かないうちに和樹もろとも転んでしまう。
 
自分のふがいなさに唇をかんだ。
 
私がもっと健康だったら…。
私がこの家の人間でなかったら…。
 
ずっと天井を見て思い続けていた感情が後悔のように噴き出す。
 
どちらの呼吸がか虎落笛のように醜い音を立てる。
いや、きっと二人の息が冬のいななきのように最後の音を立てているのだろう。
 
 
私は和樹の頭を膝に乗せ呼吸が少しでもしやすいように襟のボタンをはずした。

 和樹の髪につく雪を払っているとおでこに涙が落ちた。いくら止めようとしてもこぼれて止まらなかった。

 近くに聞こえる馬のいななきにふと視線を上げると猟銃を構えた父と使用人が馬上から見下ろし、ゆっくりと近づいてきた。


 『ふん。男のほうだけか・・・。仕損じたな。』

 『何もこの場で殺さなくてもいずれ凍死するでしょう。』

 『おとなしく嫁行けばいいものを土壇場で問題を起こしおって。いくら金をかけてやったと思っておるんだ。』

 そう言って父は私を蹴突く。

 どろどろとした憎しみだけが心から湧きあがってくる。
和樹がそっと袖をつかんでいなかったら、私は後先も考えずつかみかかっていただろう。

 父と使用人はそのまま家の方向に向かって駆けていく。



 私は和樹を何かから守るように覆い被さった。
寒さから?父から?それとも運命から?
私じゃ守りきれないのは十分わかっているけどせめて風除けぐらいにはなるはずだった・・・。

 私はうまれてはじめて声をあげて泣いた。あの狭い籠の中では声を押し殺してでしか泣けなかったから・・・。

 しばらくすると和樹のふるえはおさまった。
静かに、物言わず止まってしまっていた・・・。



 『和樹?』

 返事はない。

 『寝たの?』

 やはり返事は返ってこない。

 『そう。疲れたの。いいよ。』

 そう言って和樹の髪を撫でる。

 ゴホッ

 咳に口を抑えると血の塊がこびりつく。


 『きっと私もそのうち寝ちゃうから。』


 和樹のおでこに自分のおでこを重ねる。


 私たちの周りだけまるで別世界のように雪が赤い。和樹の血。そして、私の血。決して交じることのなかった私たちの血がようやくここで混じり合っている。



 『あんなに白くてきれいだったのに・・・。でも、また、二人で見にこようね。』



 沙奈はそうつぶやくと自分から最初で最後のキスをした。

       FIN