久遠の嵐 3

キヲク

 

 

誰だろう。

 そこで泣いているのは…。

 女の人…?

 僕はあの人を知っている…?


 そうだ…母だ…。

 
 
 『おかあさん…』

 
僕の視線はひどく低い。あぁ、これは昔の自分なんだと自覚する。
 彼女は顔をあげるとにっこりと微笑む。
 

 僕はなんだかほっとして、彼女にかけよろうとする。
 

 『あぁ、籐爾。いらっしゃい。お母さんが抱きしめてあげる。』
 
 自分の後ろに誰かいるのかと思って振り向くがそこは漆黒の闇。誰もいない。後ろだけではない彼女と自分だけが色彩をおび、後は真っ黒に塗りつぶされていた。
 
 彼女の目は自分を捕らえている。ようやく自分が『籐爾』と呼ばれていることに気づいた。
 
『お母さんはどうして僕のこと『籐爾』って呼ぶの?僕、聖爾だよ?籐爾ってあの檻の中のお兄ちゃんでしょ?』
 
 母はいとおしそうに私を抱きしめた。
 でも、母の口からこぼれる名は変わらず僕の名ではなかった。

 私のかわいい籐爾。いい子ね、籐爾はほんとにいい子ね。』

 そう言ってはやさしく頭を撫でる。

 

 僕は必死に頭を振った。

 
 『お母さん!僕は聖爾だよ!!』

 

 僕は精一杯叫んだ。でも、まるで母には聞こえていないかのように少しの反応もない。
 
 『ねぇ、僕、聖爾だよ。ねぇ。ちゃんと『聖爾』って呼んでよ。ちゃんと僕を見て…僕を…僕を見て…』
 
 僕の声は広い漆黒の闇にエコーがかったこだまを残す。
 
『籐爾…じゃ…ない…』
 
 母の小さな反応に僕は必死に答えた。
 
『そうだよ!僕は聖爾、籐爾じゃなくて聖爾だよ!!』
 
『そう…』
 
『お母さん…』
 
気づいてくれた…。私はそのうれしさで母に抱きついた。
 
『じゃ、私の子じゃないわ…』
 
そういうと母は僕の首に手をかけた。母の細い体のどこにこんな力があったのか…。ひどい息苦しさが胸を支配した。全ての空気が急速に失われる感覚。目の前が靄がかったように視界が悪くなる。必死に手を伸ばし、何かにすがろうとする。だが、その手は空を切る。
 
ただひとつわかるのは母の表情は変わらず、穏やかだったこと…。
 
これは記憶?
 
それとも作りごと?
 
わからない…。
 
たった一つの確信は
母は・・・僕を愛していなかったということ・・・
 
 
 
 
 ふと、手にぬくもりを感じ、目をあけると見慣れた天井があった。
 
 
 『ゴホッ、ゴホッ。ケホッ。』
 
 実際に胸に苦しさを感じ咳が出る。苦しさで体を横向きにする。ふと手に感じたぬくもりが失われた。でも、すぐに戻ってくる…。
 
 ようやく、最近ひどく咳が出やすかったことを思い出した。
 
 背中を小さな手が必死に撫でる。振り返ると千珠が座っていた。千珠の暖かな手が私の手をしっかりと握り締めている。さっきの手のぬくもりが千珠のものだと気づいた。
 
 『大丈夫ですか?』
 
 『あぁ、大丈夫だ…』

 
 『また…奥様の夢ですか…?』
 
 『あぁ。いつ見ても気分の悪い夢だ。父さんは気づいていなかったが母さんは昔から…私が物心ついたころからおかしくなっていた。全てが兄さんで埋め尽くされていた。私と兄さんの区別がつかないほどに。』
 
 私はそっと体を起こす。千珠はずっと背中をさすってくれている。
 
 『聖爾様…』
 
 私はさすっている千珠の手を止める。
 
 『大丈夫。ちょっと咳き込んだだけだから。もう、この夢を見たからといって昔みたいに喘息の発作をおこしたりはしないよ。』

 
 そう言って軽く笑う。

 
 『でも…』

 
 『大丈夫だよ。そんなに心配されているとどっちが子供だかわからないな。』

 
 『心配するのが千珠の仕事なんです。…本当に大丈夫なんですね?』
 
『大丈夫だ。しつこいぞ千珠。お前の心配こそ病気なんじゃないか?』
 
『…そうですか。それならいいんです。』
 
咳はもう落ち着いていた。
 
『お前ももう寝なさい。悪かったな…。明日も早いのだろう?』
 
『えぇ。でも、本当はこれを聖爾様の枕もとに置いて差し上げようと思って来たんです。そうしたら聖爾様がうなされていらしたから…。』
 
千珠の膝元にお盆に載った湯飲みと小袋が置いてある。かすかにハッカの香りがする。
 
『最近咳が出ていらっしゃるようなので近くの農家からハッカを譲っていただいて乾燥させておいたんです。本当ならもう少し干しておきたいんですが…早く使って差し上げたくて…。もう少しすぎたらハッカ油と結晶ができるからそちらはできたら持ってきてくれるそうです。それでですね、こっちは紅茶にハッカを混ぜたものです。朝に作って冷まして置いたんですよ。こっちは私の着物地の残りで香り袋を作ってみました。』
 
千珠はニコニコと持ってきたものを説明する。
 
 いつでもこうだった。私のつらいとき、彼女はこうして私を和ませる。彼女は5つのときからこの家に出入りし、私の身の回りの世話をしている。本人は気づいていないのかもしれない…気づいてこうしてくれているのかも知れない。もう、癖のようなものになっているのかもしれない。でも、どちらにしろ幼いころから私はずっと彼女に支えられてきたのは確かだった。
 
『聖爾様、どうかなされましたか?』
 
『いや、なんでもない。せっかくだから頂こう。』
 
千珠が湯飲みを差し出す。紅茶の冷たさとハッカの香りが胸の苦しさを取り去る。

 

 『明日はこちらのほうにハッカの香をたいておきますから。』
 
『…千珠。』
 
 そっと千珠の膝に額を乗せる。あの夢をみた後は自分の周りに誰もいないような不安に陥る。目がさめると訳もわからず屋敷を歩き回り、人が寝ているのを確認して回ったこともあった。

 
『なんですか?聖爾様、これじゃ本当に子供ですよ?』
 
そう言って千珠は笑う。
 
『お前は…お前は私を裏切ったりするなよ…。』
 
少しの沈黙が部屋を支配する。
 
『…わかっています…。私を誰だと思っているんです?久世家の千珠ですよ?聖爾様が殺せといったら、私は人をも殺せます。』
 
 背中に置かれた千珠の手が私の着物を強く握る。それはまるで意志の強さを示すかのように、強く・・・強く・・・。
 
『…なら、いいんだ。お前ももう休め。私も寝る…。』
 
そう言って湯飲みを千珠に渡すと再び布団に入る。
 
千珠が枕もとに香り袋を置く。ハッカの涼しげなにおいが鼻から肺へと流れていく。
 
『聖爾様、お休みなさいませ。』
 
そう言って千珠は頭を下げるとお盆を持って部屋を出て行った。心地いいハッカの香りに私の意識はすぐ遠のいていった。




 千珠は聖爾の部屋のふすまに背中をもたれさせ、独り言のようにつぶやく。

 
『私だけじゃない…誰も聖爾様を裏切らせたりしない…。決して…誰も…誰も…』
 

 もう春だというのに通り抜ける風はまだ冷たい。

 自分への戒めのように肌を刺す。

 

 父と母を幼いころに無くした自分には家族と呼べる存在はもうない。唯一そう呼ぶとすればそれは聖爾だけだろう。

 

 失いたくない…。

 離したくない…。

 千珠の心には壊れた蓄音機のように同じフレーズだけがエコーしていた。